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「無学祖元の女性教化と女人往生観」

2011年08月18日 19:08:00 佛教在线 点击:0
要旨
無学祖元は、中世期における渡来僧の一人であるが、その門下からは中世に傑出する尼僧、無外如大が出ている。また、その女性参禅者が多いこともすでに指摘されている。
平安時代に仏教思想が流布される過程で、仏教は女性を穢れたものとする思想を明確にし、尼寺も著しく衰退した。そこで、女人往生を否定する教説が著しく強調された。しかし平安末期から鎌倉時代にかけて戦乱が頻発し、夫に先立たれた女性が仏教に救いを求めるようになると、仏教はそれまで否定してきた女人往生を考えざるを得なくなった。いわゆる、鎌倉新仏教の開祖たちもそれぞれに女人往生説を展開している。ここでは、無学祖元の語録『仏光円満常照国師語録』より、無学に参禅した女性と、無学が彼女らに与えた法語などをもとに無学の女人往生観について考えたい。
 
中央民族大学外国語学院日本語系 外籍専家
渡邉 索
はじめに
従来、前近代における女性の地位は低いと見られてきた。今日の日本中世史研究においては必ずしもそうではない、特に女性が財産相続権を有していたことに注目して女性の地位はある程度保障されていると考えられている。
一方で仏教における女性差別は厳然として存在し、それについてもこれまで様々な研究が行われてきた。概して前近代の仏教がいかに女性を差別してきたかを解き明かしてきた。中世についても、既に女人往生や尼僧、女性参禅者といった様々な観点から中世仏教がどのように女性を捉えたか明らかにせんと試みられている。しかし、それらに言われているとおり、女性に触れた史料は少なく、中々全体像を明らかにすることは困難であると言える。
中世の女性像を明らかにするには経済的な側面ばかりでなく、様々な要素を合わせて総体的に判断しなければならないはずである。その中でも仏教の位置付けは重要だと思われる。なぜならば、「宗教における性差別問題は、宗教のみの問題領域にとどまるものではありえない」のであり、「宗教とは、それに基礎づけられて形成された文化パラダイムの中核として、そのパラダイムに生ずる一切の世界観、価値観、人間観、モラルなどから社会制度、性規範、主体形成のあり方をまで支配する力をもつもの」だからである[1]。つまり、前近代の人々を支配する仏教の女性観を明らかにすることで中世における女性の地位を精神文化的側面からとらえなおすことができると考えられる。
中世には劇的な時代の変化に相関していわゆる“鎌倉新仏教”とかつて呼ばれた仏教の新潮流が発生した。それらの新しい仏教思想は女性を取り巻く中世の時代状況に影響され、あるいは時代の女性観を規定していたはずである。
ここでは、中世に中国より渡来した禅僧?無学祖元の語録を頼りに、無学がどの様に女性を捉えていたか考えてみたい。同時にこれによって中世女性像を捉え直す一つの端緒になればと考えている。
 
1、古代から中世にかけての女性と仏教
 まず、中世までの仏教のもつ女性観を概観したい。
日本の仏教史上、女性を忌む思想は平安時代に入っていっそう明確になった[2]。8~9世紀頃、尼僧は国家の仏事、法会の場から締め出された。ここにおいて官僧と官尼という対応関係が崩れ、尼寺の僧寺への隷属も進行した[3]
女性を穢れた存在とし、忌避する考え方は日本社会への仏教の浸透と共に強く定着したと考えられる。仏教の清浄を護持する考えが、女性の生理や出産による出血を穢れと見て忌んだ[4]のである。一方で仏法が王権に入り込む中で、既に王権に結びついていた神信仰の持つ儀礼とタブーを取り込む必要に迫られ、寺内における穢れの排除が行なわれるようになった。女性差別の形成という点では仏教と神信仰は相互補完的役割を果たしたと考えることができそうである。
さらに、平安時代を通して、仏教が人々の生活に入り込んで来るなかで女性蔑視の思想もまた人々の間に流布され定着した。とりわけ象徴的であるのが血盆経の流布である。血盆経は10世紀以降に中国で成立したいわゆる「偽経」だが、道教にも取り入れられて広く流布し、さらに日本に伝播した[5]。ここでは、女性は月経、出産の出血による穢れから死後血盆地獄に堕ちると説かれ、血盆経をその苦しみから免れることができると言う。女性は生れながらにして穢れており必ず地獄に堕ちるというのである。
そもそも仏教は“五障”として「梵天?帝釈天?魔王?天輪聖王?仏」になれない、つまり、女性は仏教世界の指導者にはなれないとしており、女性は、悟りを得ることが出来ない=仏になれない=往生できないと、女性の往生を否定している。その理由は『法華経』によれば「女人は垢穢にしてこれ法器に非ざる」からとある。これでは現世で如何に高い徳を積んでも悟りを得ることは出来ず、往生は叶わないことになる。既に述べたように8、9世紀に尼寺が衰退したが、それにより女性の幼少期における出家は例外的になった。一方で、老病死に際して現世や来世での救済を願う、臨終出家が主流になったのである。
しかし、平安末期から鎌倉時代にかけて近畿のみならず全国に戦乱が相次ぎ、夫を戦争で失った。出家女性が急激に増加した。古代では出家は婚姻関係を否定するもので、離婚の一形態として出家が行われていたのに対して、夫の死後に再婚を拒絶し夫婦関係を継続し夫の菩提を弔うという新しい女性の出家に対する考え方が定着したことによる。いわゆる“後家尼”の出現[6]である。結果、戦死した夫の菩提を弔うため出家する武家婦人が増加し、“後家仏教”の様相を呈してきた。“鎌倉新仏教”、中世仏教の担い手たちは、女性の救済、“女人往生”の問題を考えざるを得なくなっていたのである。
 
2、中世仏教開祖の女人往生観
 中世仏教開祖たちの女性観はどのようなものであっただろうか、以下に示してみる。
法然(浄土宗開祖)の場合、善導の「弥陀の本願力によるがゆえに、女人も仏の名号を称すれば正しく命終の時、則ち女身を転じて男子となることを得、仏の大会に入りて無生を証吾す」(『観念法門』)を受け、既存仏教が、五障三従によって女人の成仏の道をふさいでいると強く批判。特に教団を支える多くの女性信者が居た[7]事が分かっている。その主張は阿弥陀の力によって女性は男性に変化して成仏できるという“変成男子”による成仏である。
 親鸞(浄土真宗開祖)は「弥陀の大悲ふかければ、仏智の不思議をあらわして変成男子の願をたて、女人成仏ちかひたり(『大経和讃』)」、「弥陀の名願いによらざれば百千万却すぐれどもいつつのさわりはなれねば、女身をいかでか転ずべき(『善導和讃』)」とあり、法然と同じく変成男子による救済を説いた。一方で「男女大小聞きて、同じく第一義を獲しめむ。…まさに知るべし諸の衆生は、皆これ如来のこなり(『信文類』)」とあるなど男女平等の往生を説いており一定でない。さらに親鸞が妻帯していたことは有名だが、親鸞には「女犯」[8]の観念があった。また、真宗教団には尼は居ても尼寺はなく、寺の主人たる僧を坊主、妻尼を坊守として扱った。
日蓮(日蓮宗開祖)の場合、「此の経持つ女人は一切の女人にすき(過ぎ)たるのみならず一切の男子に越へたりとみて候(「四条金吾妻宛書状」[9])」とあり、『法華経』こそ唯一の救い、女性を救う教えであると主張した。これによって、法然らの浄土教説は女人を助ける法ではないと批判している[10]。『法華経』は日蓮によって女人救済の法と解されたのである。
では、中国からもたらされた禅宗においてはどのように女人往生が説かれたのであろうか。入宋して曹洞禅を伝えた道元の場合、在来仏教が行ってきた女人結界を鋭く批判し、男女共に求道心あるものは平等と主張した。また道元は教団に多くの尼僧を迎えた。さらに「男性を惑わせる女性が穢れているのではなく、女性に惑わされる男性が穢れている」という現代にも通じる斬新な教説を展開した。しかし、「女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず」と言うなど女人の往生には否定的でありその往生は変成男子[11]によるとした。
これまで、中世仏教開祖たちの女人往生説についてみたが、その共通する点は既存仏教の女人結界への批判と、“変成男子”による女性の往生に見ることができる。
 中世には宋元との民間貿易の拡大にともなって僧侶の往来が頻繁になり、特に中国から禅宗の高僧が来日したことが時代のトピックとなっている。これらの僧侶は日本に大陸最新の仏教教学もたらした。中国から来化した渡来僧は女人往生の問題にどの様に対処したのであろうか。宋朝より来日した無学祖元の門下に無外如大という尼僧がいる。彼女は無学臨終に際して「後事を託す」(『佛光国師塔銘』)とまで言われ、後に尼寺を官寺として組織した尼五山で開山になる。如大については「その存在は日本女性史?宗教史上極めて重要な存在として位置付けられる[12]」とされている。
 以下、無学祖元の女人往生観について少し考えてみたい。
 
3、無学祖元について、その来歴と教化の態度
まず、無学祖元その人について紹介したい。
無学祖元は、俗姓は許、諱は祖元、字は子元、後に無学と号した。1226年、慶元府に生れる。早くに出家し、径山無準師範以下諸知識に歴参している。1269年、真如寺の住持になった後、天童寺などに歴住した。1279年、北条時宗の招聘により来日し、建長寺に住した。その後、円覚寺を開くなど日本仏教界で活躍し、南宋禅の普及に勤めた。1286年、60歳で没するまで「度する弟子三百、余嗣法者衆、皆光明盛大」と言われるように多くの高僧を育てた。門下に高峰顕日などの高僧がいる。死後、仏光円満常照国師を追贈され、一般に仏光国師と呼ばれる。
無学祖元に関する史料は語録として、『仏光円満常照国師語録』(一真?徳温ら撰、1367年刊、以下『仏光語録』とする)があり、他に『無学禅師行状?仏光禅師行状』『仏光円満常照禅師年譜』一真?徳温撰(『仏光語録』附)がある。伝記には『元亨釈書』(虎関師練撰、1321年刊)巻8?釈祖元伝、『延宝伝燈録』(師蛮撰、1678年刊)巻2?子元祖元伝、『本朝高僧伝』(師蛮撰、1702年刊)巻21?祖元伝、などがある。
このうち『仏光語録』は“語録中の語録”(晦岸常正和尚)と言われるすぐれた語録である。一方で『元亨釈書』は書全体の内容に疑問が持たれており、無学祖元の伝についてもその出自や事績に語録などと異同が見られる。後代に編まれた『延宝伝燈録』、『本朝高僧伝』両書の本伝は『元亨釈書』を引いているため、無学祖元の教化活動を明らかにするには『仏光語録』に拠るところが大きくなる。本論では大正蔵所収のものを典拠とした。
無学祖元の人物像について玉村竹二は以下の様に評している。曰く“人を接化するのに極めて懇切丁寧”である。これは『仏光語録』巻9「告香普説」などに見られ、同普説では、身分の低いある武士が無学の下を訪れ、「いくら学んでも仏法が一向に理解できぬ」と涙ながらに訴えるが、無学は優しく懇切丁寧に粘り強く説き、ついにこの武士は悟りを得るというエピソードが紹介されている。また、“無学祖元という人は…自らに対して厳格にして、他人に対して憐愍に満ち、懇切丁寧なる一人格、些か感傷に堕するかとさへ思われる浪漫的性格さへ具備している”といい、同時に“この人ほど自己を告白する禅僧は稀である”とされている。この様な玉村氏が称した無学の為人と教化の態度は様々な史料に見てとれる。無学が率直な宗教指導者であったことは、日本という“外国”で宗教指導を行うにあたって、女人往生という問題に直面したときいかに行動したか、その根底を考えるうえで無視できない要素であろう。参禅者には北条時宗夫人のような高貴の女性も多く、曲学阿世の輩であれば時流に合わせて自らの教説を変えているであろう。その点で、元軍の刃に曝されながら蕭然としていたという無学は自らの教説を権門に阿って変えるような人物ではない。また、その懇切丁寧な指導は一人一人の参禅者に対して向き合う姿勢であろうから、教化活動の実態を知るうえで語録の意義を高めている。
無学は1979年に渡来することになるが、これは北条時宗が、蘭渓道隆の死後建長寺の住持を求め、徳詮?宗英を派遣[13]したのを受けてのことである。やや本論の主旨とはずれるが、この無学来日の経緯をめぐっては二種類の意見が示されてきた。従来、玉村氏らによって無学祖元を南宋滅亡以降元朝の支配を嫌った亡命僧と捉える考え方が示されると、これが一般に知られ、無学が蒙古の襲来と戦う北条時宗の軍師であったかのような解釈がなされてきた。これに対して西尾賢隆氏は、最初は無学ではなく別人を招請される予定であったことや、無学が度々帰国の意志を示していることから亡命僧とは言えないと反論している。
西尾氏は『仏光国師語録』巻四「接荘田文字普説」を引いて、“「老僧、日本の招き趣くに臨み、多く衲子有り、衣を牽き泣を垂る。我、諸人に向って道う『我、三両年にして便ち回らん、煩悩を用いざれ』と」とあるが、両三年したら帰ろうという亡命があるであろうか、そうはいえまい。”(西尾1989)としている。しかし、“両三年したら…”を含む箇所、には「老僧臨趣日本之招、多有衲子、牽衣垂泣。我向諸人道、我三両年便回、不用煩悩。吾今与諸兄説、諸人見老僧、却作等閑、甘悠悠度了歳月。不知老僧撇掉了大唐多少好兄弟。要来開諸兄眼目。中間或有一箇半箇、直下如生獅子児哮吼壁立万仭。方可与仏祖雪屈方称我数万里遠来之意。檀那建此道場、堂宇高広四事供養種種妙好。(中略)若有幾人参請眼目開、契得老僧意者、亦可以鎖我思郷之念、慰我為法求人之心、千万勉力…」とあり、修行を等閑にする弟子達を叱咤する言葉であり、西尾氏が言うような無学が帰国の意志を示した言葉とは取りにくい。無学が亡命僧かそうでないかを論ずるのは本論の目的とするところではなく、俄には断じがたい問題であると思われる。ここではむしろ、「懇切丁寧な教化」「本心を吐露する」という無学の人物像を彷彿とさせる内容であるとみたい。もっとも強調したい点は、無学祖元という人物がきわめて率直に、かつ丁寧に参禅者に向き合って指導にあたったという点である。
 
4、無学祖元の女性教化と女人往生観
女性の往生が否定されるなかで、救済を求める女性たちはそれぞれに高僧、禅知識を尋ねており、「鎌倉時代に来日した渡来僧の周辺には、禅宗に帰依し、真摯な求法修行のなか渡来僧と問答を交わし、その力量を認められた尼僧が何人もいた(原田正俊)」と言われる。
円覚寺文書によれば北条貞時は『禅院制府』(「円覚寺文書」円覚寺蔵)を定め、女性が寺に入って良い日を規定したといい、女性で参禅する者の多かったことが忍ばれる。
この中で無学はどのように女性と関わったのであろうか、尼僧の研究に史料的制約が多いことはすでに述べたとおりだが、以下無学に関わる尼僧、女性参禅者について語録から見ていきたい。
無学祖元に関わる女性としてその筆頭にあげるべきなのは無外如大である。
無外の伝記は『延宝伝燈録』巻10にあり、「京兆景愛尼無外如大禅師、別号無著、初名千代野。陸奥太守平泰盛之女…」などとある。しかし安達泰盛(1231~1285年)の娘とは考えにくく、「資寿院置文」[14]に記される無着の伝記が混入した(舘2008)と考えられている。出自も明らかでない無外ではあるが、『佛光国師塔銘』には、無学の臨終に際して「後事を託」されたほど無学に愛された高弟であり、無学が最も頼んだ弟子としてバーバラ?ルーシュ氏により紹介されている。また後に尼寺を官寺として組織した尼五山筆頭の景愛寺で開山となっており、その頂相が宝慈院に現存している。尼僧の頂相は極めて稀で同時代に高く評価されていたことが分かる。語録上にも無外の名は散見され、その法器の高さが無学の率直な言葉によって度々賞賛されている。
無学の日本における教化の大きな成果の一つと言えるのがこの無外如大の存在であり、無学の高弟の中から後に尼五山を再建するほどの尼僧が登場したことは注目すべき事実である。
他に語録に見られるその他の尼僧、女性参禅者を列挙すると、以下の通りである。
 妙覚大姉
「妙覚大師下火 五障身妙覚体。猶如摩尼出於濁水。…」(巻4)
 道性大姉(巻7)
 僧爾大姉(巻7、9)
 「示僧爾大師 …爾不見妙總。亦是一女流。」(巻7)
 海雲比丘尼(巻7)
 小師尼慧蓮(巻7)
 小師慧月(巻7)
 長楽尼院長老(巻7)
 尼慧禅(巻8)
 尼本上人(巻8) が見られる。
これらの内、大師とあるものは、「大師は高僧に朝廷より与えられる号であるとともに、禅宗の信仰深い女性を指す。大姉と同義」(舘2008)とあることから、内容から見て、女性として良いと思われるものを挙げた。
以下に具体的な法語をあげて考えてみたい。
まず、巻7には「示小師尼慧蓮 仏性覚体。妙明円満。不問女人。不問男人。受用具足。不用安排。…」とあり、「男性であれ女性であれ、具足(戒)を受けた者は区別がないのだ」としている。
また、同じく巻7を見ると、「示小師慧月 儞性如宝月。…是名智慧光。此光照山河。男女無異相。…証此妙理時。便入諸仏海。」と、同じく男女の別がないことを言っている。
 また、無学は「誰が浄土に往生できるか」と質問された際に、
「(接荘田文字普説)…昔迦葉尊者一日乞食。不擇貧富乞食。路中逢一女人。見尊者行乞。廻起念。思身辺更無可有。只彼器中有潘汁。挙手奉献。尊者受施。訖迺騰空。現十八変相。女人即得生天。…」(語録巻4)と答えている。
摩迦迦葉に布施を行った女性が成仏を得たという仏伝を引いて、「功徳によって男女の別なく往生できる」と答えているのである。
さらに、時宗が仏賛を求めた際には、
「太守請賛仏賛五大部経典普説 …又有一宝女。持珠白仏願我此珠貫仏頂上即擲。其珠便貫仏頂。人天大会。各見珠中所現来世成仏劫土。仏言此宝女已於九万六億仏所。種植善根。所生之処。」(語録巻6)とあるが、これは自らの頭頂に珠を投げた女性がなぜ成仏し得るか釈迦が説いた仏伝を紹介しているのである。
 これらを総括すると、女人の往生を積極的に支持していたと言える。とりわけ「男女の別はない」とする教説は画期的なものに見える。しかしこ点については注意を要する。次節で述べたい。
 
5、無学と『法華経』観音信仰
無学は『法華経』を引き、
「諸小乗皆蒙授記。龍女献珠成仏。大涅槃経体円極。無処不周」(同上、語録巻6)として大乗の立場を明らかにしている。
禅宗は“不立文字、教外別伝”といい本来根本とする経典を持たないが、「夢中問答集」(無学法嗣高峰顕日の弟子夢窓疎石と足利直義との問答集)によれば、「唐土の禅院には毎朝粥の後、大悲咒一遍なむと誦するばかりなり。これ則ち座禅を本とする故なり。…建長寺の始めには、日中の勤めはなかりけり。蒙古の襲い来りし時、天下の御祈りのために、日中に観音経をよみたりける。そのままにしつけて、今は三時の勤めとなりたり。かようの勤めも、禅家の本意にはあらねども、年来しつけたることなれば、後代の長老たちもとどめ給ふことなし」とあり、『観音経』(『法華経』「普門品」観音の功徳?利益を具体的に詳説した経典)の読誦は「無学によって儀則化された」(山藤2002年)ことが明かである。
なお、『元亨釈書』巻八淨禅三之三釈祖元伝に
「四年春正月、平帥来謁。元采筆書呈帥曰、莫煩悩。師曰、莫煩悩何事。元曰、春夏之間博多擾騒。而風纔起万艦掃蕩。願公不為慮也。果海虜百万寇鎮西、風浪俄来一時破没。初元在雁山、定中観音大士現形曰、我将舡来取汝。乃示日月二字。元起詣像前卜籖。亦得日月二字…語曰、百万虜寇。天兵助順、豈不勝耶…」とある。これについては、「『礼記』「曲礼上」、「故日月以告君」を典拠とし、婚姻の日取りを決めること」[15]とされる意見もあるが、やや強引な解釈に過ぎよう。ここでは、『元亨釈書』著者の主張として「無学が時宗に蒙古襲来を予言し、その根拠として無学が観音の擁護を得て知り得たからだ」としたものとしたい。
 無学と観音のつながりについては、『無学禅師行状』に「母陳氏、嘗夢一僧襁褓嬰児以授。遂懐妊。母以累重不楽意。夜午見、一白衣女子登牀、腹曰、此児佳男子、善保勿棄。及誕白光耀室」とある。無学の出身地慶元府は観音の霊場普陀山に近く、白衣を纏った女性は典型的な観音の像容であることから考えて無学は強い観音信仰を持ったことは明らかである。
無学は女人往生を積極的に支持していることは前節ですでに述べたとおりだが、無学の明確な『法華経』尊重の態度から見て、女人往生の根本と成ったのは『法華経』であり、観音信仰と見るべきである。『法華経』(提婆達多品)には「龍女は五障?垢穢ゆえに女性は成仏できないとする舎利弗の眼前で釈迦に宝珠を献上し、変成男子して成仏を果たした」とあり、『法華経』は変成男子による女人往生の重要な根拠となっている経典である。
 従って、『法華経』の重視から見れば、無学の女人往生説は“変成男子”の域を出ていないと言うべきだが、それについてはなお検討の余地があるようにも思われる。今後の課題としたい。
 
小結
 以上のことから、無学は宋朝から来化し、多くの女性を含む僧俗を教化した。強い観音信仰を持ち、“変成男子”による女人往生の根拠となる「法華経」読誦を進める一方で、その法語を見ると、男女の別ない往生を説いた形跡も見られる。無学は多くの女性を教化し、その門下からは無外如大が出て、尼寺再興を果たした。無学の教化は“変成男子”についてはなお考慮すべき点をのこすものの、女人往生が否定された前時代に反して、女人往生説を肯定しており、画期的なものと言えるだろう。これは渡来僧無学の日本にあたえた影響の一つと見ることもできるだろう。
 
参考文献一覧
鷲尾順敬『鎌倉武士と禅』、1916年、日本学術普及会
木宮泰彦『日華文化交流史』、1954年、冨山房
松野純孝「鎌倉仏教と女性」(『印度学仏教学研究』20)1962年
玉村竹二「新仏教教団の発展」(『岩波講座日本歴史』7)1963年、岩波書店
玉村竹二『五山文学』、1966年、至文堂
ミシェル?スワミエ「血盆経の資料的研究」(『道教研究』1)1965年、人文書院
蔭木英雄「五山文学の源流」(『国語国文』)1972年、中央図書出版社
川添昭二「鎌倉時代の対外関係と文物の移入」(『岩波講座日本歴史』6)1975年、岩波書店
森 克己『新訂 日宋貿易の研究』、1975年、国書刊行会
玉村竹二『日本禅宗史論集』、1976年、思文閣
川添昭二『蒙古襲来研究史論』、1977年、雄山閣
広瀬良弘「鎌倉期の渡来僧」(『歴史公論』9巻2号)1983年、雄山閣
魏 栄吉『元?日関係史の研究』、1985年、教育出版センター
阿部肇一『中国禅宗史の研究』、1986年、研文出版
芳賀幸四郎「渡来禅僧とその業績」(『中世日本の禅とその文化』)1987年、鹿野山禅青少年研修所
浄土真宗伝道院特定課題研究会『女人往生』、本願寺出版社 1988年
西尾賢隆「鎌倉期における渡来僧をめぐって」『日本歴史』(491)1989年
転川力山「道元の《女人不成仏論》について」(『駒澤大学禅学研究所年報』)1990年
バーバラ?ルーシュ『もう一つの中世像』、1991年、思文閣
川添昭二『対外関係の史的展開』、1995年、文献出版
山藤夏郎「無学祖元における観音信仰」(『日本研究』15)2002年
原田正俊「禅宗と女性」(『国文学解釈と鑑賞』第69巻6号)2002年
勝浦令子『古代?中世の女性と仏教』、2003年、山川出版社
西口順子「女人成仏説にみる古代中世の女性と仏教」(『日本仏教の射程』)2003年、人文書院
舘 隆志「鎌倉期における禅宗の尼僧」(『禅文化研究所紀要』29)2008年
舘 隆志 「兀庵普寧に参じた尼僧をめぐって」(『日本と《宋元》の邂逅』)2009年、勉誠出版 
 


[1] 大越愛子『性差別する仏教』(1990年法蔵館)
[2] 古代において『日本書紀』は差別のあり様を示している。イザナギ?イザナミの最初の子ども、ヒルコとアワシマは女神イザナミが先に声をかけたため、障害を持って生まれた。これは女性差別と同時に障害者差別を示す例である。
[3] 『日本三大実録』880年5月19日条に「大和西陵尼寺を西大寺に摂領せしめる」などとある。
[4] 高取正男『神道の成立』(1979年平凡社)
[5] ミシェル?スワミエ「血盆経の資料的研究」(『道教研究』1、1965年)
[6] 母系制から父系制への移行に関係するか。
[7] 松野純孝「鎌倉仏教と女性」(『印度学仏教学研究』20)によれば、法然が弾圧を受けた際、弾圧対象となった家屋は多く女性によって提供されていたとされる。
[8] 「女犯」は女性を穢れととらえる事を前提としていると考えられる。
[9] 『鎌倉遺文』11800号
[10] これが変成男子説に対する批判であるかについては不明。
[11] 転川力山「道元の《女人不成仏論》について」(『駒澤大学禅学研究所年報』1990年)
[12] バーバラ?ルーシュ『もう一つの中世像』(思文閣1991年)
[13] その書状に言う
「時宗意を宗乗に留め、積むこと年序有り。梵苑を建営し、緇流を安止す。但だ時宗毎に憶へらく、樹に其の根有り、水に其の源有りと。是を以って宋朝の名勝を請い、此の道を助け行わしめんと欲し、詮英の二兄を煩わす。鯨波の険阻を憚ること莫く、俊傑を誘引し、本国に帰り来るを望みと為すのみ。不宣。」
(訓読は山口修『蒙古襲来 元寇真実の解明』によった)
(「日本国副元帥平時宗請帖」『仏光国師語録』巻3)
なおこの書状原本は円覚寺に伝存し国宝。
[14] 夢窓疎石、相国寺所蔵(『日本高僧遺墨』2、1970年、毎日新聞社)
[15] 山藤夏郎「無学祖元における観音信仰」(『日本研究』15)2002年
 

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